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11代永楽善五郎(永楽保全)

11代永楽善五郎(永楽保全)

寛政7年~嘉永7年 (1795~1854)

名は千太郎。生家は京都上京の織屋沢井家と伝えられ、初め大徳寺黄梅院の大綱宗彦のもとで喝食となるが、大綱宗彦の仲介で了全の養子となる。文化4年(1807)頃である。

文化14年(1817)11代善五郎となる。この頃結婚するが、妻は女児を産んで亡くなる。その後、幼少時奉公した百足屋木村小兵衛氏の娘と再婚し、文政6年(1823)長男仙太郎(和全)生まれる。

木村氏は保全が晩年まで「重々縁家」とした家で、陶器の釉薬・絵具を調達する「絵具屋」である。文政8年(1825)妻没し、以降再婚はしなかった。

鴻池家や三井家の名品に接し、その写しを製作することに始まり、粟田の岩倉山家・宝山家などで陶技を修練する。

文政10年(1827)了全と共に紀州徳川家の偕楽園御庭焼へ出仕をはたし、徳川治宝より「河濱支流」の金印と「永楽」の銀印を下賜される。

尚、前年文政9年には楽旦入が同じく徳川治宝より「楽」を下賜され、拝領印とする。

これによって保全も陶号に「永楽」を用い、茶陶家として楽家共々地位を認められる。

天保12年(1841)天保の改革による奢侈禁止により作陶に規制が加わり、天保14年(1843)隠居を余儀なくされた保全は家督を和全に譲る。弘化元年(1844)には善一郎と名乗る。

弘化3年(1846)鷹司公より「陶鈞軒」の号を賜り、後に「陶鈞」の印章も賜る。

弘化4年(1847)友人の塗師佐野長寛の次男宗三郎を養子に迎え、和全が当主になった善五郎家と併立して善一郎家を創設し、宗三郎に継承させると計画してより和全との不和が生じる。

嘉永元年(1848)に保全(やすたけ)と名乗る。この頃河濱焼を始める。

嘉永3年(1850)保全は京都を離れ江戸へ活路をもとめるが失敗し、嘉永4年(1851)には大津に入り琵琶湖畔に湖南窯を開き、嘉永5年(1852)には永井候に召されて摂津高槻城内で作陶をする。「永楽家代々」および歴代略年譜などで永井尚志に招かれたと記されているが、尚志は三河奥殿藩主の庶子で旗本永井尚徳の養子であり、間違って伝わったものであろう。保全を招いた永井氏の確実な資料は未見であるが、嘉永5年当時の高槻藩主は11代永井直輝である。

そして嘉永9年大津へ帰り再び湖南焼を始める。

三井寺円満院の御用窯を築くなど各地を巡る。

嘉永7年(1854)9月18日大津にて没する。60才。