音丸耕堂 おとまる-こうどう
1898(明治31)- 1997(平成9) 大正-昭和時代の漆芸作家。
本名 芳雄。高松市に生まれる。12歳の時に、石井磬堂に弟子入りし、木彫、彫漆の技術を習得。高松で江戸時代末期に活躍した玉楮象谷の作品に傾倒し、模作しながら彫漆技術を身につけた。
1920(大正9)年頃、22歳頃に、日本画を竹内栖鳳門下の橘(穴吹)香邨、書を入谷香涯(数太)に学んだ。1921(大正10)年、東京美術学校在学中の彫金家 大須賀喬ら高松に居た風流人が中心となった美術展覧会である香風会を結成した。1929(昭和4)年、御大典を記念し、官休庵宗守好みの「堆朱さぬきふし香合」を15合制作した。また、大谷句仏上人の主宰していた俳句団体 高松懸葵の同人になった。20代の耕堂は、漆芸に関係する画法や書法、茶道から漢学、和歌や俳句までを貪欲に学んで吸収していった。
その後、上京して作家活動を行い、1942年(昭和17)、第5回文展で特選を受賞。多彩な色漆を重ねた層に、現代風を取り入れた意匠を彫り込んだ彫漆作品で新分野を開拓し、漆芸界に新風をもたらした。
1943(昭和18)年、強制疎開のため、高松に帰り、香川県大川郡石田村(現さぬき市寒川町)に移る。その後、石田村は交通が不便であったので、丸亀の医師 白井貞次郎と吉田美寿利のすすめで、丸亀市通町の高畑重幸家の一隅に寄寓するようになった。これが蓬莱草舎である。丸亀城は別名 蓬莱城とも言う。耕堂はここでも制作し、1949(昭和24)年、第5回日展で特選を受賞した。
1953(昭和28)年9月、再び一家をあげて上京、文京区向丘に居を構えた。
1955(昭和30)年、重要無形文化財「彫漆」の保持者に認定された。
その後の耕堂は、彫りと色彩が織りなす豊饒な彫漆の世界を、堰を切ったようにエネルギッシュに展開していったのである。1982年後進の育成に寄与すべく「公益信託音丸漆芸研究奨励基金」を設立。1988(昭和63)年、東京池袋の西武アートフォーラムで「音丸耕堂鳩寿(きゅうじゅ)記念回顧展」、1994年(平成6)、東京国立近代美術館工芸館で「現代の彫漆(音丸耕堂一門13名の展覧会)」が開催された。1997年9月8日、肺炎のため死去。