民藝運動
1926年(大正15年)、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らによる『日本民藝美術館設立趣意書』の発刊を契機に始まり、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出そうとする運動のことです。
1936年(昭和11年)には、東京・駒場に日本民藝館が開設され、柳宗悦が初代館長に就任しました。「民藝」という言葉は、「民衆的工藝」の略語であり、かつては「下手物」と呼ばれて評価の低かった民衆による日用品を、あらためて美的価値をもつものとして見直し、新たな意味を与えたものです。
この民藝運動は、19世紀イギリスのウィリアム・モリスによるアーツ・アンド・クラフツ運動や、20世紀初頭ドイツのワルター・グロピウスを中心としたバウハウス運動と並び、19世紀以降の世界の工芸運動の中でも、歴史的に大きな意義を持つものとされています。
バーナード・リーチは、日本の我孫子にある柳宗悦邸に築窯したり、イギリスのセント・アイブスで濱田庄司とともに窯を築いたりし、日本とイギリスを往復しながら、民藝運動に大きく貢献しました。
芹澤銈介は、柳宗悦の論文『工藝の道』に感銘を受けて民藝運動に参加し、その後、沖縄の伝統的な染色技法である紅型(びんがた)に惹かれ、やがて自らの独自技法である型絵染の世界を確立していきました。
島岡達三は、学生時代に日本民藝館を訪れ、民藝思想に触れたことをきっかけに陶芸の道へ進みました。やがて、当時民藝運動の中心人物であった濱田庄司に弟子入りし、益子の地で民藝の美を追求し続けました。