能の演目「翁(おきな)」は、能楽の中でも特別な位置づけを持つ、最古級の演目であり、「能にして能にあらず」とも言われる、非常に神聖な儀式的演目です。
世阿弥は、「式三番」という三つの儀礼的な舞曲を、「父尉(ちちのじょう)」「翁(おきな/翁面とも)」「三番猿楽(さんばさるがく)」とし、それぞれ長寿と繁栄を祈る老体の神が舞う曲として位置づけていました。これらはもともと三曲一組で演じられていましたが、後に「父尉」は演じられなくなり、現在では「千歳」「翁」「三番叟(さんばそう)」の順に舞う形が一般的です。
現代では、「老い」はしばしば否定的に捉えられがちですが、伝統的には、年を重ねることは肯定的な意味合いを持っていました。興味深いことに、中国語の「老」という字も、現代中国語においては、ある文脈では尊敬や親しみを表す肯定的な意味を持っています。昔は平均寿命が短かったため、長寿を全うすること自体が驚くべきことであり、称賛に値するものでした。そして、長生きした老人には神秘的な霊力が宿っていると信じられていました。
たとえば、『続日本後紀』によれば、承和12年(845年)、仁明天皇の御代に、当時130歳と伝えられる舞の名人・尾張浜主(おわりのはまぬし)が、宮中で「和風長寿楽(わふうちょうじゅらく)」という舞楽を披露し、称賛を浴びたという記録があります。その際、浜主は次のような歌を詠んだとされています。
「翁とて わびやはをらむ 草も木も 栄ゆる御代に 出でて舞ひてむ」
このエピソードは、「老人の歌舞が世を祝福するものと見なされていた」という、古代の文化的な価値観を垣間見せてくれます。伝統芸能の中で、「翁」はこのようにして、祈祷を担う存在、さらには長寿と吉兆の象徴としての役割を担うようになったのです。