湖東焼
湖東焼
江戸時代後期から明治中頃にかけて彦根で焼かれた焼物です。
文政12年、彦根城下石ヶ崎村(現彦根市古沢町)の呉服商・古着商絹屋半兵衛が当時全国的に盛業を極めていた製陶業を彦根においても興すべく、有田より伊万里焼の職人を招き、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開いたのが始まりです。
第14代藩主・井伊直亮治世下の天保13年(1842年)、藩直営となりました。
湖東焼は直亮と次の第15代藩主・直弼の治世下で最盛期を迎えますが、幕府大老の職にあった直弼が江戸城桜田門外で暗殺された安政7年(1860年)を境に彦根藩内の空気も一変し、政情不安の煽りで職人のほとんどが離散してしまいます。
約2年後には廃窯し、再び民窯として存続していたが、それらも明治中頃には
閉鎖され、湖東焼は途絶しました。