古美術用語集

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浜田庄司

浜田庄司 神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれる。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し窯業の基礎科学面を学ぶ。1916年(大正5年)同学校を卒業後は、学校が2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃柳宗悦、富本憲吉やバーナード・リーチの

民藝運動

民藝運動は、1926年(大正15年)、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らによって、「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊により開始された、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出そうとする運動です。その後、1936年(昭和11年)に、東京 場に日本民藝館が開設され、柳宗悦が初代館長となりました。民藝という言葉は、上手物に対して下手物と称され、評価の低かった民衆のによる品々を「民

初期伊万里

初期伊万里は、1600年代前半に作られたと伝えられる、日本で最初の磁器、伊万里製品です。絵付けの前に素焼きを行わず、本焼きする「生掛け焼成」を用いています。そのため、温かみのあるしっとりとした風合いに仕上がります。素地や染付の不安定な発色など、草創期らしい未熟な技術ですが、逆にそれが味わいとなっています。初期伊万里は中国に倣った技術です。その当時の中国は欧州や日本に陶磁器を輸出しており、陶磁器生産

古九谷

古九谷の産地には諸説ありますが、17世紀中頃に始まり、その後、 数十年間のみに焼かれた伊万里焼や九谷焼の色絵磁器の初期のものを 古九谷様式と総称しています。 17世紀初頭に朝鮮半島からの技術移入を受けて、伊万里焼の生産が 始まりました。当初、色絵磁器を作ることができませんでしたが、 17世紀中頃になると技術の向上とともに、その焼成が可能になり ました。この初期の色絵磁器が古九谷様式と呼ばれている一

河井寛次郎

河井寛次郎 1890~1966 島根県生まれ。東京高等工業学校窯業科卒後、京都市陶磁器試験場に入所。京都市五条坂に窯を築き作陶を行う。東洋古陶磁の技法による作品を制作していたが、民藝運動に関わり、実用を意識した作品に取り組むようになる。多彩な釉薬を用い、重厚で変化に富んだ形の器を生み出した。晩年には独創的な造形表現を展開。文化勲章、人間国宝、芸術院会員への推薦を辞退している。無位無冠の陶芸家。

祥瑞

祥瑞は、一般的に中国 明時代末期 崇偵年間(1628~1644)頃を中心に日本からの注文により江西・景徳鎮の民窯で焼かれた染付磁器のことで、日本での呼び名です。 古染付に比べて、上質な胎土と顔料を使い、端正な形に丁寧に文様を書き込んでいます。 祥瑞という名の由来は、一説には、一部の作品の銘文に「五良大甫 呉祥瑞造」と書かれていることにあります。これは「呉」家の五男の家の長男である「祥瑞」が造っ

古染付

古染付は、一般的に中国 明時代末期・天啓年間(1621-27)頃を中心に、江西・景徳鎮の民窯で焼かれた染付磁器のことで、日本での呼び名です。 民窯の染付磁器は、胎土や釉薬などが決して上質とは言えません。例えば、胎土と釉薬の収縮率が違うため、器の屈曲部などで釉薬が剥落し、胎土を露しているものもあります。これは、まるで虫が喰ったように見えるその様子から“虫喰い”と呼ばれます。