古美術用語集

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蒟醤(きんま)

蒟醤は、漆器の加飾技法の一つで、「金間」「金磨」「金馬」といった異なる表記もされます。この技法は、タイのチェンマイ地方、ラオス、ミャンマー(旧ビルマ)などで発展し、中国に伝わって「填漆(てんしつ)」と呼ばれるようになりました。日本では、茶人たちがこの技法を取り入れ、香合(こうごう)や食籠(じきろう)などに転用し、愛用しました。   江戸時代末期、高松の玉楮象谷(たまかじ ぞうこく)(

湖東焼

湖東焼は、江戸時代後期から明治中期にかけて彦根で作られた陶器です。   1829年(文政12年)、彦根城下の石ヶ崎村(現在の彦根市古沢町)に住む呉服や古着商の絹屋半兵衛が、当時盛んだった陶磁器産業を彦根でも興そうと考え、有田から伊万里焼の職人を招きました。そして、彦根の油屋町の古着商・島屋平助、彦根藩の御蔵手代・西村宇兵衛とともに、彦根城南の芹川沿いにある晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」

源内焼

源内焼は江戸中期18世紀に平賀源内の指導によって源内の故郷香川県志度(現さぬき市)で焼かれた三彩のやきものです。 明治時代に博覧会の企画で源内の子孫によって一時再興されますが、質的にもデザイン的にもオリジナルには及びません。 源内は博物学者として長崎に遊学した折にオランダからもたらされた新しい釉薬の技術を学びます。その技術を用いてふるさと讃岐・志度の産業を振興させるため、 新しい三彩軟陶質の

義山(ギヤマン)

江戸時代、義山(ギヤマン)はダイヤモンド(金剛石)を指す言葉でした。オランダ語の「diamant」やポルトガル語の「diam o」の訛りだといわれています。もともとはダイヤモンドそのものを意味していましたが、やがて水晶などの宝石類や、ダイヤモンドで加工されたカットグラスを含む、広くガラス製品全般の呼称となりました。   すでに室町時代末期には、オランダ人によって酒杯や瓶、鉢などのガラ

大津絵

大津絵は、江戸時代に東海道の追分や大谷あたりで、旅人の土産物やお守りとして売られていた絵のことです。寛永年間(1624〜1644年)頃に仏画として描かれ始めました。もともとは信仰のために描かれていましたが、やがて世俗的な絵画へと変化していきました。   18世紀頃からは、教訓的または風刺的なテーマの絵が描かれるようになりました。文化・文政期(1804〜1829年)には、「大津絵十種」

11代 三輪休雪

1910(明治43)年~2012(平成24)年 11代三輪休雪は、萩焼の名門・三輪家の三男として山口県萩市に生まれました。本名は節夫。号は「休」(襲名前)、「休雪」(襲名後)、「壽雪」(隠居後)と変わっていきました。 1927(昭和2)年に山口県立萩中学校を卒業後、兄である10代三輪休雪(休和)に師事し、家業に従事します。1941(昭和16)年には三重県津市の千歳山窯で川喜田半泥子に短期間師事

小山 富士夫(古山子)

1900(明治33) - 1975年(昭和50) 陶磁器研究者・陶芸家。 中国陶磁器研究の大家。岡山県浅口郡玉島町(現・倉敷市玉島)出身。主に鎌倉市を拠点にして執筆、陶磁器研究では、中国北宋時代の名窯、定窯跡を発見し世界的な陶磁学者として名声を確立。晩年に至るまで実証的東洋陶磁研究をして、古陶磁研究書など多く執筆寄稿。晩年には、岐阜県土岐市泉町に「花の木窯」を開き作陶。陶芸家として、茶器を始め

7代 楽 長入

1714(正徳4)年 - 1770(明和7)年 左入の長男として生まれ、享保13年(1728)、七代吉左衞門を襲名。宝暦12年(1762)、剃髪隠居して長入と号しました。

初代 真清水 蔵六

1822(文政5)年 – 1877(明治10)年 山城国乙訓郡久我村の庄屋・清水源右衛門の三男として生まれる。幼名は太三郎、のちに名を蔵六、号を宗缶とする。 13歳で京都の叔父・四代和気亀亭に入門。17歳のときには青磁を焼き、天保14年(1843年)に五条坂に窯を開き、名を蔵六と改めた。その後、妙法院宮の命により姓を「真清水」と改める。 元治元年(1864年)、孝明天皇に献茶する