古美術用語集

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七官青磁

七官青磁  中国・明代以後に龍泉窯を中心として焼かれた青磁の一種。透明性のつよい淡い翠青色の光沢が強い釉薬で、概して貫入があるのが特徴とされ、我が国では七官手と呼ばれる。彫塑的な技法を使った作品が多くみられ、陰刻・陽刻・押型や土型による型物があり、型物香合はほとんどが七官青磁である。名の由来は明朝の七官という者が将来したとも、明朝の官名だったとも言われている。  

薩摩焼

薩摩焼 鹿児島県産の陶磁器の総称。ただし狭く薩摩錦手を指して薩摩焼と称する例がある。 窯により分類があり、古帖佐・串木野・苗代川・平佐など様々な窯が創始され廃絶する。 創紀は文禄・慶長の役に出陣した島津義弘が、陶器製造に巧みな者を探索し、1595年(文禄4年)朝鮮人を連れ帰り窯を開かせた。 1614年(慶長19年)朴平意が白土を発見して白薩摩が始まる。 1648年(慶安元年)有村碗右衛門

蒟醤(きんま)

蒟醤(きんま) 漆加飾技法の一種。金間、金磨、金馬の字もあてる。タイのチェンマイ地方、ラオス、ミャンマー(ビルマ)で産し、中国に伝わって填漆(てんしつ)とよばれ、日本では茶人が香合(こうごう)、食籠(じきろう)に転用し愛好した。江戸末期、高松の玉楮象谷(たまかじぞうこく)(1805―69)はこの技を模し、優れた作品を残し、その伝統がこの地方の産業として今日まで栄えている。素地は主として竹を編んで

湖東焼

湖東焼 江戸時代後期から明治中頃にかけて彦根で焼かれた焼物です。 文政12年、彦根城下石ヶ崎村(現彦根市古沢町)の呉服商・古着商絹屋半兵衛が当時全国的に盛業を極めていた製陶業を彦根においても興すべく、有田より伊万里焼の職人を招き、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開いたのが始まりです。 第14代藩主・井伊

源内焼

源内焼 源内焼は江戸中期18世紀に平賀源内の指導によって源内の故郷香川県志度(現さぬき市)で焼かれた三彩のやきものです。 明治時代に博覧会の企画で源内の子孫によって一時再興されますが、質的にもデザイン的にもオリジナルには及びません。 源内は博物学者として長崎に遊学した折にオランダからもたらされた新しい釉薬の技術を学びます。その技術を用いてふるさと讃岐・志度の産業を振興させるため、 新しい三

義山(ギヤマン)

義山(ギヤマン) 江戸時代、ダイヤモンド(金剛石)をよんだことば。オランダ語diamantの訛(なま)りとも、ポルトガル語diam oの訛りともいわれる。本来はダイヤモンドそのものをいうことばであったが、水晶などの宝石類や、ダイヤモンドで加工されたカットグラスを含めて、広くガラス製品一般の呼称ともなり、すでに早く室町時代末期に、オランダ人によって製法が伝えられていた酒杯や瓶、鉢などのガラス製の器

大津絵

大津絵   江戸時代 東海道の追分、大谷辺りで 旅人の土産またはお守りとして売っていた画のことです。 寛永年間(1624- 1644年)の頃仏画として描かれ始めました。当初は信仰のため描かれたものでしたが、やがて世俗画となりました。 18世紀ごろより教訓的・風刺的な絵が描かれるようになりました。文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題ができました

11代 三輪休雪

11代 三輪休雪 1910(明治43)年~2012(平成24)年 11代三輪休雪は9代三輪雪堂の三男として山口県萩市に生まれました。本名を節夫、号を休(襲名前)・休雪(襲名後)・壽雪(隠居後)といいます。1927(昭和2)年に山口県立萩中学校を卒業後、兄・10代三輪休雪(休和)に師事して家業に従事しました。1941(昭和16)年に三重県津市の千歳山窯で川喜田半泥子に師事し、短期間でしたが精神的

小山 富士夫(古山子)

小山 富士夫(こやま ふじお) (古山子) 1900(明治33) - 1975年(昭和50) 陶磁器研究者・陶芸家。 中国陶磁器研究の大家。岡山県浅口郡玉島町(現・倉敷市玉島)出身。主に鎌倉市を拠点にして執筆、陶磁器研究では、中国北宋時代の名窯、定窯跡を発見し世界的な陶磁学者として名声を確立。晩年に至るまで実証的東洋陶磁研究をして、古陶磁研究書など多く執筆寄稿。晩年には、岐阜県土岐市泉町に「