粉引 素地に白泥(泥状の磁土)を化粧掛け(白化粧とも言う)して素焼きし、さらに透明釉を掛けて焼成したものです。 粉を引いたように、白く柔らかく清らかで美しい釉面をしているところから、茶人によって名付けられたました。 粉引の素地には鉄分を含んだ赤土(茶色の土)が使われます。 色合いは、素地や焼成によって白から生成、黄色味をおびたものなど微妙な違いがあります。 粉引は、李朝朝鮮の陶磁の歴史の
漁樵問答(ぎょしょうもんどう) 1.漁夫が言うには、釣竿や糸など完璧にしていても、釣れなければ釣れない。 樵夫(きこり)が言うには、背負えるだけ背負ってさらに薪を背負っても転んで 怪我をするだけ。意味するところは「身分をわきまえよ。限界を超えてはならないし、結果は天命のなすところ。」と言う中国の故事から名付けられた。 2.山で生きる樵夫、海で生きる漁師、いず
粟田焼 京都粟田(東山区)付近の陶器の総称。近代では清水焼が磁器を主とするのに対し、粟田焼は陶器を主としている。粟田口焼が最も古く、その他岩倉山・錦光山・丹山・宝山・帯山などが著名である。色絵に優れ、多くは茶器である。明治以後京薩摩の名で海外から賞美され、一時期粟田焼の黄金時代を呈したが、貿易の不振でその後衰退した。
初代 宮川(真葛)香山 1843(天保13年)~1916(大正5年) 天保13年生まれ。宮川長造の四男。幼名寅之助。 長造没後、明治3年に有栖川宮の勧誘と薩摩藩士小松帯刀の後援により横浜へ 移住、大田村字不二山下(現横浜市港区庚台)に窯を築いた。真葛焼「真葛香山」と称しました。 明治元年、茶人であった岡山池田藩家老 伊木三猿斎忠澄公の招きで備前虫明窯を 指導しました。 明治9年のフィ
帝室技芸員 帝室技芸員の制度は、皇室による美術作家の保護と制作の奨励を目的として明治23年(1890)に設けられました。 明治維新以後、ヨーロッパから次々と新しい美術が入り、わが国の美術・工芸の衰退と美術家の経済的困窮が顕著になってきたことに対して、工芸技術の保護と制作奨励を図るためにフランスのアカデミーにならって制定されたと言われています。 その人選にあたっては、宮内大臣の任命による選択委
虫明焼(むしあけやき) 岡山県邑久郡邑久町虫明の陶器。寛政年間(1789-1801)領主の岡山藩家老伊木家の御庭窯として生まれた。 窯は瀬戸窯。次いで1819年(文政2)に池奥窯が築かれ、ここでは仁阿弥道八も作陶しており、1842年(天保13)に廃窯。 1847年(弘化4)に伊木三猿斎は京都の初代清風与平を招いて間口に開いた。2代与平も1863年(文久3)に虫明へ赴き、少庵二百五十回忌のため
御菩薩焼(みぞろやき) 現在古清水と呼ばれる初期京焼の一つ。御菩薩焼は江戸初期から粟田焼や清水焼に続き、上賀茂で始まりました。 文献によりますと、御菩薩焼きは山城国愛宕郡御菩薩村で焼かれた京焼きの一種で、御菩薩村は「京の三条大橋からおよそ、五拾町程北の地である」とあり、「現在の京都市北区上賀茂深泥池湖畔である」との事です。 御菩薩焼の創始者といわれてる万右衛門が、深泥池のほとりに住居をかまえ
平戸焼 三川内焼ともいう。長崎県佐世保市で生産される陶磁器です。安土桃山時代、平戸藩主松浦鎮信が朝鮮人陶工を連れ帰って、平戸市山中町に御用窯を開きましたが、その後、三川内に移され現代まで続いています。 三川内焼は世界的に白磁が知られていますが、これは1712年に発見された天草陶石と網代陶石を用いたことによるとされています。きめ細かい地肌とその白磁に映える繊細優美な染め付け、透かし彫
須恵器 青く硬く焼き締まった土器で、古墳時代の中頃(5世紀前半)に朝鮮半島から伝わった焼成技術をもって焼いた焼き物のことをいいます。それまでの日本には、野焼きで焼いた縄文土器や弥生土器、土師器など赤っぽい素焼きの土器しかありませんでした。 それまでの焼き物と須恵器が大きく異なっているのは、その焼成技術にあります。野焼きでも1,000度近くまで温度は上がりますが、周りが覆われていない