古美術用語集

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古清水

江戸時代後期に磁器の本格的な生産が始まり、京都で作られた焼き物が「清水焼」と呼ばれるようになったことから、それ以前の江戸時代中期以前に京都で作られた陶器は「古清水」と呼ばれるようになりました。狭義には多彩な上絵付を施した陶器を指しますが、広義には染付、錆絵、焼締なども含まれます。江戸時代後期においても、磁器とは異なる京焼の色絵陶器の総称としてこの呼称が使われました。   古清水の特徴

13代 楽 惺入

1887(明治20)年 ‐ 1944(昭和19)年 十二代弘入の長男。大正8年、家督を継承、吉左衛門を襲名。 作風は、独自に各地の鉱石を研究し、楽茶碗のほかにも各地の陶磁を積極的に制作している。置物にも意欲的に取り組んだ。また箆技術においても、個性的な表現が多く、全体的に見ると大胆な力強い作品を多く残している。没後、惺斎宗左より号、惺入を賜る。

朝鮮民画

朝鮮民画は、韓国の庶民によって描かれた実用的な民俗絵画です。これらの作品は、結婚や還暦などの儀式、装飾、厄除け、開運といった実用的な目的で使用され、屏風や掛軸に仕立てられたり、壁に直接貼られたりしました。   「民画(みんが)」という言葉は、日本の民芸運動の創始者である柳宗悦によって広められました。彼は当初、日本の大津絵などの民俗絵画を指してこの用語を使いました。柳の働きによって、そ

八仙人

八仙人(Ba Xian)は、道教において最も象徴的な存在の一つであり、中国社会のあらゆる階層から広く尊敬を集めています。日本の七福神と同様に、吉祥の象徴として人気があり、掛け軸や陶磁器などによく描かれ、さまざまな芸術作品の題材となっています。 八仙人はそれぞれ、「男」「女」「老」「少」「富」「貴」「貧」「賤」という社会的属性を象徴しているとされます。また、八仙人それぞれが神通力を発揮するための法

縄文象嵌(縄象嵌)

縄文象嵌(縄象嵌)は、作品に縄目模様を施し、その溝に異なる色の粘土をはめ込む装飾的な陶芸技法です。   この技法は、島岡達三によって考案されました。彼は、窯業指導所で教材模型を作る際に研究した縄文時代の土器の文様付けと、朝鮮王朝時代の象嵌技法である「三島手」から着想を得ました。 これらの影響を融合させるきっかけとなったのは、彼の父が作っていた絹の組紐でした。島岡はこの組紐を半乾きの

島岡達三

1919年(大正8年)〜2007年(平成19年) 東京出身。伝統的な組紐職人の家に生まれる。濱田庄司に師事し、1953年に益子に自身の窯を築く。組紐を転がして文様を付け、その上から化粧土をかけて象嵌模様を施す「縄文象嵌」と呼ばれる独自の技法を生み出した。 世界各地で個展を開催し、高い評価を受けた。1996年には人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された。

濱田庄司

1894(明治27)年‐1978(昭和53)年 神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれる。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し窯業の基礎科学面を学ぶ。1916年(大正5年)同学校を卒業後は、学校が2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃

民藝運動

1926年(大正15年)、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らによる『日本民藝美術館設立趣意書』の発刊を契機に始まり、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出そうとする運動のことです。 1936年(昭和11年)には、東京・駒場に日本民藝館が開設され、柳宗悦が初代館長に就任しました。「民藝」という言葉は、「民衆的工藝」の略語であり、かつては「下手物」と呼ばれて評価の低かった民

初期伊万里

1600年代初頭に日本で初めて作られたとされる磁器であり、その発祥は伊万里地方にあります。   後の磁器製作技法とは異なり、初期伊万里では「生掛け(なまがけ)」と呼ばれる技法が用いられており、素焼きをせずにそのまま釉薬をかけて本焼きを行っていました。そのため、作品には温かみがあり、しっとりとした柔らかな風合いが生まれています。   素地や染付の色味が不安定であったり、発